#3 クラムボンは、かぷかぷと

両手の平で包んだカップをゆっくりと鼻近づける。

口もとから液体を流し込む前に、唇で止め、カップを顔の方にゆっくりと傾け、一息吐き、熱く満ちるその気体を思い切り吸い込む。

鼻の奥から喉元へ、白く茶色いその香りだけが抜けていき、それが一口目の前の一口目。

先にスプーンを入れ、くるくると回して。小さな銀色の器に入った、やわらかな白いミルクをそおっとカップの渦のまんなかへ流し込む。流したまんなかから、ふっくらと広がる白い曲線。

ザクザクとした淡い茶色の、小さなビーズのように光るお砂糖。

それをカップにいれる、砂糖が消える瞬間の儚い音。

無色透明なはずの水には、茶色く香ばしい焙煎の香りがとけだしていて。

ふわり、苦く甘く。

天井、三枚羽がゆるやかに回る、回る。

食器はカチカチと静かに。

お店の奥ではコーヒーを選別する女性の手元からはツッ、ツッ。

向かいのテーブルには丸メガネの女性。背筋をすっと伸ばし、赤い口紅がよく似合う。彼女がめくる、雑誌のハラハラという音もまた美しく重なり。

そして談笑するお客様と店主の、声。重なりが広がり、静かにつづく。

窓際の席。

背中に聞こえた車の音につられ振り返ると、五線譜の電線には白い雲の音符。

かぷかぷとかわいらしく、浮かび漂う。

#2ヒッピーという猫がいた



ヒッピーという猫がいた。

店の軒先でよく晴れた日には毛繕いをして、雨の日には雨宿りをしていた

猫のことだ。

野良なのか、飼い猫なのか判らないけれどいつもふらふらと街を彷徨う

風来坊のような黒猫。

そんな生き様を見て、ヒッピーという名前はぼくが勝手に命名した。

ヒッピーが眠たげな街を、美しい夕闇に包まれた街を見上げるとき

黒猫の後ろ姿に一瞬だけ真理が見えた、ような気がした。

ヒッピーという猫がかつていた。

この街は今日もしずかに暮れていく。

#1 なんじゃもんじゃの見える席

7月のある日 16時30分

窓際の席、右側。

木漏れ日がノートに映る。夕方、という名前がついてもおかしくない時間なのに、はっきりとした強いコントラスト。明るい部分に書く文字はスポットライトを浴びているようで、日陰にいる文字のほうを応援したくなる。

ガラスの向こうの、池のさらに奥には紫陽花。池一面のハスの葉は太陽に向かって大きく首を伸ばしている。

西日は、二枚重なった紺色のリネンの、ちょうど境目に明るい光。

今日は山の撮影が昼過ぎまであって、そのあとに寄ったんだ。八幡平の風でゆれる小さな白い花の集まりは、震えるように、風を見せてくれて。

「わぁ!」

と、特別なものを見たような気持ちになったのだけれど。

わたしたちの五感のどれかにひっかかるようにして、風や陽の心地よさを知らせてくれる自然は、盛岡の街の中にもちゃんとある。この目の前に、紺色のリネンの向こうに広がる景色の中にいつもあるんだ。

「二階は豆を置いてるけど、景色がいいよ。なんじゃもんじゃの木が、ここよりよくみえるよ」少し低い店主の声、続いて顔なじみらしい二十代くらいの男の子の声、右耳にちいさく響く。

あ、風だ、ちょっと強い。

17時10分。

太陽は二枚目のリネンの、下から三分の一ほどの場所に。

空っぽになったカップには斜め上から陽が差し、カップの内側にぐるりとできた影。じいっとみていると淹れたばかりのコーヒーがまだ手元にあるような気がしてくる。夏が終わり季節が移っても、夕方の飲み終わりのカップはこんな風に満たされてみえるのだろうか。

背骨をゆるく後ろに預ける。山道をたくさん歩いた、今日の私の体。じわっと椅子の芯に向かって沈み込む。

そのまま最後の一口。

会計を終えて、外に出た。店の前に駐めていた自転車の鍵をあけるために腰をおる。豆のカラカラとした香りが、空気に少しだけ溶け込んでいる。

この感じ、どこかで。

ああ、さっき飲んだ最後の一口。

体温と変わらないくらいの夏の温度のなかで、甘く、そして茶色く香る。西日で視界がまろやかに色づいて。そんなところまでよく似ていた。