電子ピアノを家に買った。
保育園で子どもに弾く歌を練習したかったのと、小学生の二人も気が向いたら弾くかな?と思って。届いたのが今月の22日なので約一週間がたちました。今のところ、かえるのうたと、メリーさんのひつじと、んー、チューリップ。キラキラぼし…あとは…ちょうちょちょが弾けるようになりました。せんせいとおともだちと、こいのぼりは練習中。
右手でメロディーをドレミで思い出して、和音を左手でジャーン!ってやって合わせています。パッと出てくるコードが3つくらいしかないので、ぴたっと合わない音がときどきあって、弾きながらムズムズと気持ちが悪い。
そして弾きながら歌うと、どちらかが雑になってしまう。歌詞か指かどちらかを間違う…。先輩の先生は子どもの反応を見ながら弾いていてかっこいいんだよなあー。
「ピアノ、じょうずになるといいね」と、我が家の子どもたちに言われて、「じょうずになる」ってどういうことなのかなと考えていました。
級や資格のように、わかりやすいステップアップの道がみえないもの。そう、私の手の届く範囲で考えるなら、ピアノももちろんそうだし、言葉の扱い方、写真だってそうだ、じょうずになりたい。
「じょうずになる」って、モノサシのメモリを細かく増やしていくことなんじゃないか、とおもう、2019年3月現在(時間がたったらきっと変わる)。
なにかを始めた時点で、のっぺらぼうな木の板が「ほいっ」と手渡されて。毎日練習して、誰かから教わって、本を読んで、また学んだことを試して。そんなふうに目盛を作っていく。
最初は大雑把な目盛しかない。30センチのモノサシなのに10センチ間隔で3つ!みたいな。
それでもその目盛がぴたっと合うことが時々起こって、それを私たちは「ビギナーズラック」と呼んだりするんじゃないだろうか。
その目盛が細かくどんどん増えたら、「この長さでお願い」って声に「任せとけ!」って返せる。強弱をつけたり、色合いを変えたり、伝わり方まで塩梅を調整できるようになる。
「じょうずになる」ってそういうことかなあ。
たくさん持っていることがいいことかっていうとそうでもないですよね。
こまかーく目盛が入った、一本を持った人にしか合わせられない世界というのは存在するだろうし。
なにが、いい、とか、悪い、とかではなくて。
自分がどのくらいの目盛のモノサシを何種類持っているのか、を、把握するのは大事なことだなと思っています。
適材適所。
わたしやあなたが「こんなの使えない」と思っている定規にしかぴったりと合わせられないものも、世の中にあるのかもしれない。
誰かが「これを探していたんだよ」と喜ぶものが自分の手の中にあるのかもしれない。
逆だってきっとある。
そんな風に思ったら、誰かと出会って、話して、深く知ることは、もっと楽しみなことに変わる。
出会いの春、わくわくと進みましょ。
写真は髪を切られながら、餃子レシピ特集を熟読する息子。彼には彼なりのモノサシが心の中にあるのです、おそらく。
今日もLITERS、読んでいただいて嬉しいです。ありがとうございます。
始めたことが続かなくても悔いない。たくさんのモノサシ抱えているのだって素敵。