
ただいま、
キッチンからは、なんだろう、スパイスの香りが。
「おかえり」
静かな音楽は、声よりも少し離れた場所から。


キッチンに声をかけたのだけれど、あれ、いない。
コンロには、大きなルクルーゼいっぱいに野菜とお肉がぐつぐつぐつ。
今日はカレーだな。
このルクルーゼはきれいな黄色。
彼女がこの色を選んだ理由は「カレーを作るのにぴったりだから」


「はやかったね」
今日買ったばかりなのか、見慣れない本といつもの裁縫道具を両方、いっぱいに広げた机の上。
背をぐーっと、大きくそらして、こちらにひらひらと手を。



手を洗おう。外から帰ってきて手を洗うのは、バイキンを落とすためだけじゃない。
1日分の言葉のやり取り。そのかけらが手のひらに残るから、それを一度リセットするのだ。強い言葉も弱い言葉も。

ひんやりと香る両手と一緒に、寝室へ。ベッドに一度腰を下ろす。
ここで背中まで預けてしまうと、一気に眠くなるので、ぜったい腰まで。
目に入るのは一枚の絵。
僕は絵を飾る習慣が彼女と生活するまで、まったくなかった。
「暮らす中に絵があるって、いいよ。窓が一つ増えたみたいになるし、とっても気持ちよく過ごせるから」
うん、たしかに。絵にも「おかえり」と言われているよ。

早めの夕食を終えてリビングへ。
彼女は、昼間の裁縫の続きを。僕は僕でのんびりと。
集中しているのだろう、口数も減って。時折伸びをする。
その背は我が家のもう一枚の絵。気持ちよく暮らしていける、窓のような。


ぱちんぱちん、と白いスイッチで電気を消していく。

また1日が。今日も1日が。ぱちん、ぱちん。
おやすみおやすみ。またあした。
これからこの家で、どんなふうにドアが日々開き、
「おはよう」「おやすみ」「ただいま」「おかえり」
どんなにたくさんの言葉が交わされるのだろう。
シャッターを切る手をとめて、ついその姿を思い描いてしまいます。
それは、ここが、ただの物件でもなく、建物でもなく。
「おうち」だからなのかもしれません。