「暑いな」、と「窓を開けてちょうだい」のスキマ

こないだの日曜、お弁当パラダイスの片付けのとき。
「あ、机がまだ下に一つある」と私が呟いたら、
お手伝いしてくれていた人が「いってきますよ!」と言い、たたたっと階段を降りていった。

手が塞がっていたので本当にありがたかった。のだけど、よく気がきく性格のあの人に甘えたコミュニケーションだったな、と思った。

気がきく人の中には、「暑いね」と、一言状況を伝えるだけで「窓を開けようか?」「飲み物のむ?」と相手の不満を解消する選択肢を提示してくれる人もいる。暑かった人は「うん、開けて。」と答える。快適になる。

察する、ってエネルギー使うじゃないですか。知らず知らずのうちに。サービス業経験ある方はわかると思うんですが、仕事中はお客様の表情や仕草、言葉から「察する」ためにアンテナを張り巡らすわけです。それこそ「暑い」という単語が出る前に、窓を開けるか伺う、みたいな。

「暑いね」と言葉を発するだけで、窓が開き涼しくなることを期待するというのは、お互いにリラックスできる間柄なはずなのに、お客さんとお店の人、みたいな状況を作り出してしまうようで違和感があるのです。

「暑い」という自分の感情とは別に、「窓を開けてほしい」という依頼をする。
その依頼を受けるか受けないかは相手が決める。受けない、という選択肢もあるのが大事。
「いいよ、窓を開けるね」となったら「ありがとう」感謝をつたえる。

「だっこ!」と言えばだっこしてほしいんだね、と抱き上げる。「くっく!」と言えば外に行きたいのかな?と窓から外をみせる。そんなやりとりを楽しんでいた時期が赤ちゃん期にありました。やりたいことが、欲しいものが、言葉でちゃんと通じた!という嬉しそうな顔や、逆に「そうじゃない!」と癇癪を起こして泣く姿も記憶に残っています。

「暑いな」だけ伝えてさ、相手にうちわを持ってこられたとするじゃないですか。本当は窓を開けて欲しかったのにー。
そしたら、感謝じゃなくて不満が生まれてしまう。うちわを持ってくるという行動をした相手の労力は変わらないのにね。
大人だからさ、赤ちゃんみたいに癇癪を起こすわけでもないとおもうけど。

まあ、極論その二人がそれで快適と感じるならそれでいいが。
せっかく大人になったんだし、会話のあとに二人の心の天秤が釣り合うようなコミュニケーションを模索していきたいな、と思う、ちょっと真面目な今日のスキマ。

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